ああ。渇いている者はみな、さあ、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え(イザヤ55:1)。「ああ」(ヘブル語、ホーイ)とは、人間の生き方を嘆いて、「信じられない!」といった感じ の神様の思いが表現されている。私たちはみな、サタンに洗脳されてしまった。「さあ」とは、 文字通りでは、「行く」という動詞で、「何をしているのか、早く行って...」というふうに、 人に強く行動を促す時のことば。それが、三回も使われている。 「穀物を買う」とは、シャバールという動詞で、ここでは2 回使われている。これは、ヤコブの 息子たちが、飢饉の時に、「穀物を買う」ためにエジプトのヨセフの所へ2 回行ったことが背景 になっている。2 回とも、払った銀は全部戻されて、結局彼らは、「金を払わないで、穀物を買 った」。これが、神様が人間たちにしてあげたいこと、また人間たちに生きてほしい生き方。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう(2 節)。地は、人の罪の結果、十分な食べ物を生み出すことができず、飢饉の状態にある。生きて神に仕え て働くこと以前に、自分が生き延びることだけのために働くようになってしまった。そして、その ような生き方をしている自分たちのことを、何も不思議に思わない。本来、人はみな、神の恵みに よって、すべてをただで受けて生きる者であった。支払いは、人にとって不自然なこと。耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ(3 節)。そのために必要なことは、神に「耳を傾け」、彼のところに「出て行く」こと。「耳を傾け」、 「聞く」とは、神のことばを信じ、その霊的現実を自分の現実として受け入れていくことを指す。 彼のところに「出て行く」とは、今の世界から出て、彼の世界(国)に入って行くこと。ヤコブ とその息子たちが、ヨセフのもとに行き、そこに住み始めたように、あなたも、世から自分を聖別 し、彼の道を歩んで行くことが必要。その時、神は「とこしえの契約、ダビデへの変わらない 愛の契約」をあなたと結び、みことば通りに、ご自分の望むことを成し遂げてくださる。雨や雪が天から降ってもとに戻らず、必ず地を潤し、それに物を生えさせ、芽を出させ、種蒔く者には種を与え、食べる者にはパンを与える(10 節)。これは、飢饉の原因である、「いばら」や「おどろ」が完全に取り去られてしまったからである。いばらの代わりにもみの木が生え、おどろの代わりにミルトスが生える。これは主の記念(名)となり、絶えることのない永遠のしるしとなる(13 節)。この「名」、「しるし」とは、イエス・キリストのこと。