※かわいい文鳥の鳴き声が入っています。以下、駒田による副読文。
・村上春樹のラジオを昔きいたときに不思議な聞き心地があったことをおぼえていて、あれはなんだろう。ふつうに喋っていたら出るはずの「えー」とか「あのー」とかまったくないし、詠嘆もほとんどない、ただ言葉と言葉の間にすこし不自然な間があって、喋っている最中は淀みない。淡々とジャズを紹介する役割をこなしつつ、喋りとしては異質なのにその異質さにはとくにふれられず始終する。はじめは戸惑ったけれど、段々おもしろく思えてくる、いま思うとあれは村上春樹のこわばりだったのかもしれない。あきらかに意図的にそうした喋り方をこころがけていて、その意図への執着がおもしろかった。あれは一種の「放心」だと思う。そういう目線に立って自分が好きできいているpodcastやラジオをきいていると、やっぱりどこかで「放心」が見られる。どれだけ喋りがうまくてもその瞬間だけは隙がある、というようなこわばりの瞬間。きっとそれがききたくてきいている。ラジオは基本的にひとりかふたりなど少人数で放送されて、その環境がごく個人的なこだわりを貫き通しやすくしているのではないだろうか。電波としてひらかれていながらそれが発信されている場所自体は広場じゃなくてとても狭いブースであったりする、SNSのように監視のゆきとどいた場所ではあらかじめ気にしてしまって言えないことを言えたりする(結果それがネットニュースになって同じ目に遭ったりはするのだけれど)。とにかくこだわりがこわばりになる。油断しているのではなくて、どうしてもそうしたくなるし、そうしてしまう。たとえ意味が伝わらず、そもそも意味がないのだとしても、自分のそのこだわりに執着してしまう状態、外部からの抑圧がうすく、ある程度自由でリラックスしているらこそそうできてしまう状態、放心。この状態をつくることは、なかなか難しい。
・ぺこぱの話がすこしでている。自分はぺこぱの漫才が好きだ。ただベルクソン風に言うならぺこぱの漫才をみて自分が「反省」するのはボケのシュウペイではなくてツッコミの松陰寺に対して、ということになる。こういう人間をみたときに”つい注意してしまう自分”を反省している。アンガーマネジメントの一環で、こわばりそのものを緩衝しようという自己研鑽にちかい営みになり、自分はシュウペイをどこまで許して愛でられるか、という方向性を持つ。個人的にはもう、シュウペイには、家で毒ガスつくってたらいっぱいできちゃったからお隣さんちに持っていくとか、そういうボケをしてほしくなっている。そのとき自分はシュウペイと、シュウペイを許す松陰寺のどちらを見るんだろう。
・生きる柔軟性を失っているひと、と言われればかなり心当たりがあるので自分は比較的「放心家」であるといえるのだろうけれど、だれだっていついかなるときも放心状態というわけではないと思う、自分のpodcastをききなおしていて、いろいろ考えるところはある。未だに緊張するし、いろいろな点で配慮がはたらいている、結果的に放心を意識的に志向するような極めて半端な態度でいることがおおい。たぶんもっと適当にやったほうがいい。とはいえ、一個自分のなかに明確なこだわりがあるとすれば、それは散漫であることだと思う。具体的にいうと、自分でもまだわかってないことを迂闊に喋ってしまうことだ、話にまとまりがなくなり結論らしい場所に着地しないことに自分の放心はある。わかっていることをわかるように喋ることならもうすこしくらいうまくできそう(いやできないかも、でもそれをするならせめて文章でやりたい)だけれど、喋りたいことはあんまりそこにはない、自分は問いたいのであって、回答したいわけではない、ということもふまえて、伝われと念じるように喋っている、それが本当にだれかに伝わったとき、放心サイコキネシスは実現するのかもしれない。でもこの話はここまで書いてみて、アーティストの公式ページでたまにある「それ自分で言う?」って感じのバイオグラフィみたいでやだなって思ってます。
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