新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ(詩篇96:1-2)。「新しい歌を主に歌え」とは、どういう意味だろうか。次の詩篇にも同じことばが出てくる。新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ(98:1)。実はここで言う、主の「右の御手」や「御腕」による救いとは、特に次のような話に由来するもの。主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。...主よ。あなたの右の手は力に 輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く(出エジプト15:4−6)。これは、エジプトを脱出したイスラエル人が、海の真ん中を通ってエジプトの軍勢から救われた 時に、モーセが歌った歌。敵からの救いと勝利を喜ぶ歌である。これを境に、イスラエル人たち は、神の民として新しく存在し始めた。イザヤ書に行くと、次のようなことばがある。しかし、わたしのしもべ、イスラエルよ。...わたしは、あなたを地の果てから連 れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「...わたしはあなたを 選んで、捨てなかった。...わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の 右の手で、あなたを守る(イザヤ41:8-10)。実は、ユダの滅亡のあと、バビロンへ捕囚に連れられて行ったユダヤ人にとって、エルサレムへ の帰還とその町の復興は、第二の出エジプトとして考えられ、新しい神の創造の業によるもので あった。だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、...イスラエルよ。あなたを形造っ た方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。...あな たが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなた は押し流されない(43:1-2)。新しい創造は、新しい時代の到来でもある。次のように歌っている。先の事は、見よ、すでに起こった。新しい事を、わたしは告げよう。...主に向か って新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから(42:9-10)。バビロン捕囚のあとイスラエルの民に起きた創造の業は、キリストを通して、もっと大きな人類 全体のレベルで起きた。恵みの時の到来である。今こそ、本当に新しい歌を歌う時。それは、救 われた者だけが歌うことのできる歌。エルサレムの滅亡を体験し、自分たちの神への信仰と、生 きることに疲れたユダヤ人たちに、神様は語られた。若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力 を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れな い(40:30-31)。天地を造られた創造の神を小さく考えてはならない。知っているつもりでも知らないでいるのが、 私たち信者だ。神様は常に新しいことをなさる方。それを受け取る準備はできているだろうか。